みゆき野球教室

ダメ人間の由佳さんが毎日0時に更新しています

生きる

死にたい。
しかし、生きたくても生きられない人もいるので、そうそう死にたいと言っては叱られる。
わかっちゃいる。だけど、つらい。
 
この数日は、身体の病気が心のつらさを忘れさせてくれた。だが、身体が回復してくると、また心が痛くなる。といって、ずっと身体の病気でいるのも困る。
 
もし、病気で余命を宣告されたら、きっともっと生きたいと思うだろう。うまくいかないものだ。
では、死を受け入れたとして、この人生悔いなしと言えるかといえば、絶対に言えないと思う。
生きたという何かを形としてこの世に残していない。私は未婚で子供もいない。血は残せなかった。芸術家としての作品も残していない。お金も残せない。
 
黒澤明の「生きる」は、胃がんで余命を宣告されたら役所勤めの男の物語だ。彼もまた、この世に何も残せなかったことを悔いていた。彼が私と違うのは、残りの人生で生きた証を残したことだ。
 
この映画は公園のブランコで志村喬がゴンドラの唄を歌う場面が有名だ。だが、私は別の場面が好きだ。死ぬことを知り絶望のうちにある志村が喫茶店だったかナイトクラブで階段を降りる。ちょうどその店では、別の客の誕生日のパーティが行われていた。陽気な誕生日の歌と、これから死んでいく志村の対比が心の襞に残った。
 
どうせ死ねないのなら、生きてみようと思うが、心が言うことを聞いてくれるか? それが問題だ。