十階のモスキート
もう何年も前の話だ。
仕事で目黒警察署の近くに行ったとき、古くて汚いトンカツ屋があった。
ちょうどランチタイムだったので、そこに入ることにした。
同僚は「こんな店が実は旨いんだよ」と言って嫌がる私を無理やり店に押し込んだ。
壁にはこんな張り紙があった。
「当店は早くお出しする技術は持ち合わせていません」。
同僚はその張り紙にえらく感動して、「味で勝負なんだな。職人だね」と言って喜んでいた。
私はロースカツ定食を注文した。待つこと20分。いや、もっと待ったか? やっとロースカツ定食が運ばれてきた。しかし、見ると少し焦げている。口に入れてみると、まずい。
どうやらこの店は早く出す技術も持っていなかった上に、美味しく作る技術も持っていなかったようだ。
最近になって、記憶を頼りにあのトンカツ屋を探してみたが、なかった。やはりあの味で長く商売をするのは無理だったんだろう。
刑事ドラマを見ると、犯人に自白をさせるときにカツ丼が使われる。あのカツ丼は、きっと警察署の近くの美味しいトンカツ屋の出前だろう。そう思って、警察署の近くに行くと美味しいトンカツ屋を探すのが習慣になった。
「十階のモスキート」は、内田裕也の脚本・主演の警察官が主人公の映画である。
学歴もなく出世ができない警察官の男は、妻にも逃げられ、どん底の生活を送っている。何度も落ちている昇進試験に合格するためにサラ金から借金をしてパソコンを買う。それがきっかけに、借金は雪だるま式に膨れ上がり、取り立ては勤務している交番にもやってくるようになる。
最近になって知ったのだが、自白を促すためにカツ丼を出すことはないそうだ。もし、それで自白しても違法な自白となるらしい。もっと早く知っていれば、警察署の近くのトンカツ屋を探すこともなかっただろう。