野のユリ Lilies of the Field
日本にとっての存立危機とは、ホルムズ海峡が封鎖されることでもなく、中国が攻めてくることでもない。頭の悪い総理大臣が海外で失言することだ。
今回の難民に対する対応の問題であります。これはまさに国際社会で連携して取り組まなけれないけない課題であろうと思います。人口問題として申し上げればですね、我々はいわば「移民」を受け入れるよりも前にやるべきことがあって、それは女性の活躍であり、高齢者の活躍であり、そして出生率を上げていくにはまだまだ打つべき手があるということでもあります。
すでにこの発言は、国際社会において、大笑いされている。
一人の頭の悪い総理大臣のおかげで、日本人全体が頭が悪いと思われる。
ローマ教皇フランシスコは、次のように演説した。
多くの人々が、戦争や飢餓から逃れて難民となり、生き残ることを願いつつ旅立っています。こうした悲劇を前にして、福音は、その人たちに具体的な希望を示すようわたしたちを招いています。『がんばって、耐えてください』と言うだけではいけません。したがって、欧州の小教区、修道院、聖地巡礼地にお願いします。福音を具体的な形で示し、それぞれ難民の家族一世帯を受け入れてください。
クリスチャンのような「良き人」は、このような状況の時、魚を与えるのではなく、魚のとり方を教えることが多い。しかし、今、現実に困っている人を前にそんなことが言えるだろうか? まずは空腹の人には食べさせ、乾いている人には飲ませるだろう。だが、「良き人」はしばしば間違える。魚を与えると甘えるのでよくないと。
教皇フランシスコは、はっきりと言っている。「具体的な希望を示せ」と。まずはパンと水、そして寝場所を与えるべきだと。魚の取り方はその後で十分だ。
フランシスコは、次の聖書の言葉を引用して演説を締めくくった。
この最も小さな者にしたことは、わたしにしたことです
この「わたし」とは、イエスのことである。つまり、困っている隣人を助けた人は、イエスを助けたことと同じことだと言っている。
バチカンは難民を2世帯受け入れることを表明した。ヨーロッパの各教会もそれぞれ1世帯を受け入れることになる。
私は、先々週のミサの説教の中で、神父がこの話をして、先の聖書の言葉を引用した時に不覚にも泣いてしまった。この言葉は、聖書の中で一番美しく、大好きな言葉だからだ。
「野のユリ」は、シドニー・ポワチエが黒人として初めてアカデミー賞を受賞した作品だ。
アリゾナを車で旅をしていた黒人青年のホーマーは、ヨーロッパから来た世間知らずの修道女たちと出会う。修道女は、ホーマーが神から遣わされた使者でこのアリゾナの荒れ野に教会を建てるためにやってきたと信じて疑わない。
ホーマーは教会を建てることを手伝うが、理不尽さを感じていた。一度はそこを抜け出したものの、また戻ってきて結局教会を完成させる。そして、彼は再び旅に出る。
この映画のことを考えると、あの聖書の言葉が思い出される。彼は、きっと大きな報いを得るだろう。
前にも書いた。今、日本では難民は遠い存在だ。確かに、難民申請をしている人は多い。そして、認められるのはごくわずか。これは世界的にも非難されている。
だが、私たちは彼らに心を留めることも大切だが、身近に困っている人がいたら、優しくしてもバチは当たらない。むしろ、そうすべきだ。私たちもいつ困難に直面するかわからない。困った時はお互い様だ。「情けは人の為ならず」というではないか。