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チャップリンの独裁者 The Great Dictator

学校で日本国憲法を学んだ時、一番印象に残ったのは、第12条の条文を読んだ時だ。
 

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」の不断の努力という箇所が特に心に刺さった。
 
日本は政府や軍部の失政の結果、侵略戦争を起こし多くの国民が生命を落とし、近隣各国にも被害を与えた。この反省から出来た日本国憲法によって、私たちはようやく自由と権利を手にした。
しかし、アメリカの押し付けで恥ずかしい憲法なので、日本人による真の日本国憲法が必要である、と主張する人たちが少なからずいる。だがその草案を読んでみても、現行の憲法を超えるものには出会ったことがない。改憲派の主張は、先の大戦の敗北を認めず、再び戦争ができる国にしたいという考えがある。
どんなことを考えても自由だ。憲法で保障されている。だが、もう一度戦争をすると、私たちが犠牲を払って獲得した自由や権利は失われることになる。改憲派の人たちは、そこまでの覚悟があるのだろうか。
 
国権の最高機関である国会では、安保法案を強行に成立させようとしている独裁者がいる。
それに対して、若者たちが立ち上がった。連日、国会前では抗議のデモが行われている。大人たちもその輪に加わり、市民の声は次第に大きくなった。
一方、そんな人たちを冷ややかな目で見ている人もいる。
だが、デモに反対の声を上げ、独裁者を支持する人たちは、まるで自分たちがやがて食肉になるのを知らずに肉屋に声援を送っている豚に思えてくる。教育を受けて、自分の頭で考える訓練をしてきた人には、今回の法案が戦争法案であることは明確にわかる。しかし、教育を受ける機会がなかったり、教育を受けても学ばなかった人、自分の頭で考えるのではなくテレビやネットの意見がすべて正しいと思っている人にとっては、この法案に反対する人たちは国を滅ぼす悪魔だと考える。
また、これらの人は自分たちにとって都合の悪い人を「反日」「在日」「共産党とつながっている」などというレッテルを貼りたがる。
 
国会前でデモを行っているSEALDs(シールズ)の中心的メンバーで明治学院大学4年生の奥田愛基さんが参議院特別委員会の公聴会に出席し、意見を述べた。その全文はこのリンクから読むことができる。
 
弁護士ドットコム
 
彼は、「不断の努力なくして、この国の憲法や民主主義、それらが機能しないことを自覚しているからです」と言って、当事者である自分たちが動かないといけない理由を述べている。
 
もう一度、憲法12条の条文に戻るが、「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」のだ。人任せにしてはいけないのだ。
 
チャーリー・チャップリンにとっての転機は、1940年に公開された「チャップリンの独裁者」だ。
それまでのチャップリンは、山高帽にちょび髭、だぶだぶなズボンに大きすぎる靴。そしてステッキを持った放浪者チャーリーがパントマイムだけで人生の喜び、哀しみをペーソスを交えて笑いで伝えるのが彼が確立したスタイルだった。
しかし、ドイツでヒトラーが暗躍し始めると危機感を持ち、彼と戦うためにサイレントというチャップリンが最も得意とした手法を捨て、完全トーキーによる映画を作った。それが「独裁者」だ。
 
ヨーロッパの架空の国の独裁者アデノイド・ヒンケルチャップリン)はユダヤ人を迫害し、魔の手を全ヨーロッパ、そして全世界に広げようとしていた。彼に瓜二つのユダヤ人理容師(チャップリン二役)は突撃隊によって店を破壊され、暴力を受ける。そんな対照的な二人が、たまたま同じ顔を持っていたことにより入れ替わる。そして、世界が喝采したラストシーン。
 
暴力で世界を支配しようとしたヒトラーに対して、チャップリンは笑いと風刺で彼に戦いを挑んだ。暴力に対して暴力で応戦することはある意味簡単だ。しかし、チャップリンは芸術家として映画で、笑いで、風刺で戦った。しかし、これは孤独な戦いでもあり、のちに彼がレッドパージでアメリカを追放された原因にもなった。自由の国アメリカは自由のために戦った彼を共産主義者として追放したのだ。
また、もしナチスがアメリカを攻めて来れば、彼は真っ先に殺されるだろう。まさしく生命を賭けた戦いだった。
 
日本でも同じようなものだ。独裁者の暴走を止めるために活動している人たちに対し、多くの人は安全なところにいて批判しかしない。
 
この映画は日本で公開されたのは戦後の1960年になってからだ。ドイツと同盟を結んでいた日本では絶対に公開できない映画だった。映画評論家で私の師匠である花本マサミは1960年、東京の朝日新聞社で行われた試写でこの映画を観た。ラストシーン、エンドマークが出るとうるさ方の映画評論家各氏が一斉に拍手をしたそうだ。
 
チャップリンがアメリカでの名誉が回復されたのは1972年のことだ。彼はアカデミー賞の名誉賞が贈られ、20年ぶりにアメリカの地を踏んだ。授賞式でチャップリンが登場すると全員が立ち上がり、彼に拍手を贈った。そして、「モダン・タイムス」の主題曲の「スマイル」をみんなで歌った。
 
私は1977年の5月に映画ファンになった。ちょうどその時、TBSの「月曜ロードショー」でチャップリンの作品を5本放映した。その第一弾は、今日取り上げた「チャップリンの独裁者」だった。吹き替えは愛川欽也だった。キンキンによるラストの演説は心をうった。
同じ年の12月にチャップリンの伝記映画「放浪紳士チャーリー」が公開された。しかし、運命とは皮肉なものでこの映画が公開中の12月25日、彼はスイスの自宅で静かにその生涯を閉じた。
 
SEALDsの活動を見ていると、チャップリンがダブって見える。
今のダメダメな日本にあって、唯一の救いは優秀な若者がたくさんいることだけだ。