みゆき野球教室

ダメ人間の由佳さんが毎日0時に更新しています

陽はまた昇る

高校の同級生のフカガワくんは、金持ちだったのでかなり前から家庭用ビデオを持っていた。VHSより前の規格からビデオを使っていた。
 
私が初めてビデオを買ったのは、22歳の時。丸井で三菱電機のVHSを10万円で買った。赤いカードの10回払いで。当時はデパートに電化製品が売っていた時代。このビデオは定価が20万円だったが、半額で買うことが出来た。
 
その後、何回もビデオを買い換えたが、最後は3万円代まで価格は低下した。VHSのあとは、HDDレコーダーを2台買ったが、テレビジョンを見なくなったので、今ではオブジェと化している。
 
昔はベータかVHSかで大いに悩んだ。映画関係者はベータが多かったので、私もベータにしたかったが、VHSの方が安くて結局VHSにした。結局は、ベータは規格争いに負けて民生用からは姿を消した。ただ、放送用の規格としてはBETACAM(ベータカム)が事実上の標準として生き残っている。
 
VHSで業績を向上させたのは、日本ビクターだ。
家庭用ビデオはビッグビジネスになるということで、各社は多くの製品を投入したが、当時は録画時間を短く、カセットテープは大きかった。また、各社独自の規格では互換性がないので、市場を食い合う状態だった。
そんな中、SONYがベータマックスという規格の新製品を市場に投入した。画質も音質も良く、小型のカセットテープということで、一気に家庭に入っていった。
一方、業界下位の日本ビクターでは、家庭用ビデオ部門はお荷物とされていた。プロジェクトリーダーは、会社に黙って新規格の高性能ビデオの開発を目指した。このビデオの特徴は、ベータマックスよりも長い録画時間、そして規格を賛同する同業他社に公開して、互換性を高めた。
結果は、みなさんご存知の通りだ。VHSは文字通りの世界共通規格として爆発的に普及した。
 
このプロジェクトリーダーは、西田敏行が演じた。ミスターVHSとも、ミスタービデオとも呼ばれた実在の人物がモデルになっている。そして、この経緯は、NHKのプロジクトXでも取り上げられたので、ご覧になった方も多いと思う。
 

走れ、三輪トラック

先日は広島を批判した。今回は、その埋め合わせに広島を褒める。目一杯褒める。
今日は映画ではなくテレビジョンの話題でお付き合いいただく。
 
1945年8月6日、8時15分。一発の原子爆弾の投下によって、広島の街は一瞬で死んだ。
70年間は草木も生えないと言われ、また人を含め、生き物がそこに住むこともできないと言われた広島。
生命も、幸せだった人生も、夢に見た未来も、すべては一瞬にして奪われた。残った者は絶望しかない。私たちは気安く絶望という言葉を使うが、広島の人の絶望は筆舌に尽くしがたい究極の絶望だったことだろう。
しかし、広島の人たちは、結束と勇気と努力でこの苦難を乗り切り、広島は復興した。そして現在は、美しい国際平和観光都市として多くの国からの訪問者を受け入れている。
 
この復興に大きな役割を果たした人や企業がある。
広島電鉄被爆からわずか3日後の8月9日に一部区間で電車の運行を再開し、市民を勇気付けた。
現在のマツダ東洋工業も復興に大きく貢献した。
 
東洋工業の創業者で二代目の社長の松田重次郎は、広島で生まれ、13歳で大阪に奉公に出て機械工作の技術を身につけて故郷で東洋工業を創業する。主力の製品は三輪トラックだ。しかし、戦争が激しくなると、軍需産業に転換を余儀なくされ、三輪トラックは作れなかった。
 
重次郎の70歳の誕生日に、広島に原爆が投下される。重次郎と長男で専務の恒次は助かったが、販売会社の社長で恒次の弟は命を落とす。会社は爆心地から離れていたことと、比治山や黄金山の陰になったことから大きな被害にはあわなかった。
 
重次郎は、三輪トラックの生産を再開することで広島の復興に役立とうと決意する。しかし、資材はなく、部品を作る協力会社も被災していることから困難を極めた。懸命の努力の末、ついに戦後最初のマツダ号を完成させる。
 
重次郎は職人上がりのため、社員には厳しく教育した。道具は粗末にするな、いい加減な仕事はするな、ネジ一本にまで魂を込めろと。そして、使う人が喜ぶものを作れと厳命した。
原子爆弾はテクノロジーによって広島を破滅させた。自分たちは、テクノロジーで広島を復興させる。その強い一念で、困難を乗り越えて、とうとう広島を本当に復興させた。もし、マツダの三輪トラックがなければ広島の復興はもっと遅れていたと言われる。重次郎と恒次、そして東洋工業の社員は意地と誇りで働いた。
この三輪トラックは、海外にも輸出された。その英語のポスターには、こんな一文がある。
 
a Pride of Hiroshima. 広島の誇り。
 
ここまでを描いたNHKの「走れ、三輪トラック」というドラマを見て、私は溢れる涙を抑えきれなかった。

動画投稿サイトにはこの作品はないが、どこかで機会があれば是非ご覧いただきたい。

 

この三輪トラックで得た利益は、のちのマツダの飛躍の原資となり、ロータリーエンジンへと繋がっていく。
 
今、マツダは特徴のある経営を行い、注目されている。世界の中の100人に1人のマツダ車が大好きな人に、その人が本当に喜ぶクルマ作りをする。値引きで売るのではなく、ブランドロイヤルティを高めて選んでもらえるクルマ作りをする。そして、それが成功している。
 
広島の人たちはこの地元の企業を大いに誇りにしていい。
今回載せる動画は、マツダのスピリットを短くまとめた優れた作品だ。これも是非ご覧いただきたい。
 

東京の合唱

会社の中で一番好きな場所は、スタジオでもなければ編集室でもない。もちろん、楽屋やリハーサル室でもない。一番好きな場所は食堂だ。そこでは、出演者もスタッフも、エライ立場の人もそうでない人も、一緒にご飯を食べる。何て素敵な場所なんだろうと思う。
激務の楽しみは、この食堂でご飯を食べること。この時間だけは、自分を取り戻せる。
一番好きなメニューは、310円のライスカレーだ。大きな塊の肉がいくつも入ったポークカレー。少し、粉っぽいが、美味しくて幸せな気分になる。
 

f:id:yukasan1964:20160610182124j:plain

 
映画の撮影所の食堂にも一度行ってみたい。きっと、華やかだろう。といっても、最近は撮影所の食堂も縮小傾向だし、そもそもスターが常に撮影している映画の全盛期は昔の話なので、放送局の食堂の方が華やかかもしれない。
 
撮影所の食堂というと、こんなエピソードを読んだことがある。
ある若き監督助手が夜間撮影の休憩で食堂に入り、ライスカレーを注文した。ボーイが次々とライスカレーを配り、いよいよ自分のところに運ばれてくると思ったところ、後から入ってきたベテラン監督のところにその皿が配られた。若き監督助手は「順番だろ」と言ったが、どこかから「助手は後だ」という声が聞こえ、監督助手はボーイに殴りかかろうとした。
この事件は撮影所内に知れ渡り、後日撮影所長の呼び出しを受けてしまう。所長は助手に「一本撮ってみたまえ」といって、監督昇進が決まった。
この若き監督助手こそ、小津安二郎だ。渡された辞令にはこう書いてあった。「監督を命ず。ただし、時代劇部」。こうして、彼の処女作「懺悔の刃」は生まれることとなる。
 
ライスカレーで監督になれたのは、映画界広しといえども彼だけだ。だから、私もひたすら310円のライスカレーを食べ続けようと思う。
 
小津安二郎が1931年に演出した「東京の合唱(コーラス)」は、映画監督として悩んでいた時の作品だ。
この時代は、世界的な不況の時期で、多くの失業者が溢れていた。
ストーリーはこんな感じだ。ボーナスの支給日に老いた社員が解雇される。その理不尽な仕打ちに抗議したところ、主人公も解雇されてしまう。
主人公は、カロリー軒という洋食屋を手伝うが、恩師の計らいで新しい職にありつく、というものだ。
このカロリー軒にはどうやらライスカレーしかないようだ。悩んだ小津は、自分を監督にしてくれたライスカレーを映画に登場させ、スランプを脱出した。
 
この作品はサイレントでしかもフィルムの保存状態が極めて悪い。それでも現存しているだけありがたい。かつての日本映画は、フィルムを廃棄することが多く、小津安二郎の作品も初期のものは残っているものが少ない。
 
 

ジャッカルの日 THE DAY OF THE JACKAL

この作品は、フランス大統領のシャルル・ドゴールを暗殺しようとする組織と警察の攻防を描いたものだ。原作はこの作品が小説としては処女作となるフレデリック・フォーサイスだ。
冷徹な暗殺者ジャッカルは、エドワード・フォックスが演じた。
私はこの作品を日本テレビの「水曜ロードショー」で観た。緊迫したストーリー展開が忘れられない。
 
さて、先日オバマ大統領が広島を訪問した。厳重な警戒の中、全身黒ずくめの怪しい影が大統領に近づいた。どうやら、平和公園で生活している黒ネコが姿を見せたようだ。
このように、要人が行動する際は、狙撃に対して注意が必要だ。
 
大統領の警護をするシークレットサービスは、大統領の命を守るためなら自らの命を投げ出す覚悟だそうだ。そういえば、ずいぶん前にレーガン大統領が狙撃された時、シークレットサービスのティモシー・マッカーシーが銃弾に倒れた。とても不幸な事件だった。
 
日本は、民間人の銃の所持が認められていないので、このような事件は少ないが、暴力団などが暴走しないか、心配である。
 

モヒカン故郷に帰る

人生はやり直すことができるのか?
これは私の30年来のテーマだ。
映画や文学も、このテーマのものを探してしまう。
結論から言えば、運が良いと人生は何度でもやり直せるが、運が悪いと1回の挫折でジエンドとなる。
私は、過去に何度もやり直しを試み、浮上しかけたこともあるが、結局は沈んでしまう。
特に、この1年は新しい人生を手に入れ、かなりがんばったが、ダメだった。
幸い、大底は打って回復途上ではあるが、海面から顔を出すまでには至らないだろう。
 
この地獄のような日々で色々と考えた。
例えば、普通に努力をすれば幸せに暮らせる土地へ引っ越すこと。
東京は好きだし、東京の生活は便利だ。しかし、生きることはこの土地ではかなり辛い。目一杯努力をしても、幸せに暮らせるには足りない。
では、どこに行こうか? 本来なら、サンフランシスコかバンコクに住みたいが、資金とビザの関係、そして病気との兼ね合いでそれはできない。国内なら、温暖な気候の土地が良い。
瀬戸内海の島はどうだろうと思って調べたら、住宅が高い。アパートが少ないためだ。また、仕事がほとんどない。
では、どこが良いか? 候補は、岡山、香川、広島に絞られた。このうち、広島は過去に住んだ経験がある。ただ、私は広島弁と広島の人の気質が苦手だ。
岡山は、観光で行ったこともないので、面白いかもしれない。香川は美味しいうどんが食べられそうでいいかもしれない。
でも、多分この中から選ぶと、やはり広島になるだろう。住宅が安く、そこそこ仕事もある。
移住には、資金の問題もあり、すぐには実行できない。そして、都落ちのコンプレックスを感じながら生きるような予感もする。
どうしたものか?
 
瀬戸内の島が舞台の映画がある。
広島県のある島へ、モヒカンがトレードマークの若者が結婚の報告に帰省する。しかし、年老いた父親が癌になっていることがわかる。
この映画は、美しく穏やかな島の生活が描かれるが、大いに魅力的だ。
 
広島の悪口を幾つか書いて、広島の人は気を悪くされたかもしれない。申し訳ない。
ただ、広島は映画の環境にかけては、東京に匹敵するくらい恵まれているし、充実している。広島の人は、それを誇っていいと思う。