みゆき野球教室

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走れ、三輪トラック

先日は広島を批判した。今回は、その埋め合わせに広島を褒める。目一杯褒める。
今日は映画ではなくテレビジョンの話題でお付き合いいただく。
 
1945年8月6日、8時15分。一発の原子爆弾の投下によって、広島の街は一瞬で死んだ。
70年間は草木も生えないと言われ、また人を含め、生き物がそこに住むこともできないと言われた広島。
生命も、幸せだった人生も、夢に見た未来も、すべては一瞬にして奪われた。残った者は絶望しかない。私たちは気安く絶望という言葉を使うが、広島の人の絶望は筆舌に尽くしがたい究極の絶望だったことだろう。
しかし、広島の人たちは、結束と勇気と努力でこの苦難を乗り切り、広島は復興した。そして現在は、美しい国際平和観光都市として多くの国からの訪問者を受け入れている。
 
この復興に大きな役割を果たした人や企業がある。
広島電鉄被爆からわずか3日後の8月9日に一部区間で電車の運行を再開し、市民を勇気付けた。
現在のマツダ東洋工業も復興に大きく貢献した。
 
東洋工業の創業者で二代目の社長の松田重次郎は、広島で生まれ、13歳で大阪に奉公に出て機械工作の技術を身につけて故郷で東洋工業を創業する。主力の製品は三輪トラックだ。しかし、戦争が激しくなると、軍需産業に転換を余儀なくされ、三輪トラックは作れなかった。
 
重次郎の70歳の誕生日に、広島に原爆が投下される。重次郎と長男で専務の恒次は助かったが、販売会社の社長で恒次の弟は命を落とす。会社は爆心地から離れていたことと、比治山や黄金山の陰になったことから大きな被害にはあわなかった。
 
重次郎は、三輪トラックの生産を再開することで広島の復興に役立とうと決意する。しかし、資材はなく、部品を作る協力会社も被災していることから困難を極めた。懸命の努力の末、ついに戦後最初のマツダ号を完成させる。
 
重次郎は職人上がりのため、社員には厳しく教育した。道具は粗末にするな、いい加減な仕事はするな、ネジ一本にまで魂を込めろと。そして、使う人が喜ぶものを作れと厳命した。
原子爆弾はテクノロジーによって広島を破滅させた。自分たちは、テクノロジーで広島を復興させる。その強い一念で、困難を乗り越えて、とうとう広島を本当に復興させた。もし、マツダの三輪トラックがなければ広島の復興はもっと遅れていたと言われる。重次郎と恒次、そして東洋工業の社員は意地と誇りで働いた。
この三輪トラックは、海外にも輸出された。その英語のポスターには、こんな一文がある。
 
a Pride of Hiroshima. 広島の誇り。
 
ここまでを描いたNHKの「走れ、三輪トラック」というドラマを見て、私は溢れる涙を抑えきれなかった。

動画投稿サイトにはこの作品はないが、どこかで機会があれば是非ご覧いただきたい。

 

この三輪トラックで得た利益は、のちのマツダの飛躍の原資となり、ロータリーエンジンへと繋がっていく。
 
今、マツダは特徴のある経営を行い、注目されている。世界の中の100人に1人のマツダ車が大好きな人に、その人が本当に喜ぶクルマ作りをする。値引きで売るのではなく、ブランドロイヤルティを高めて選んでもらえるクルマ作りをする。そして、それが成功している。
 
広島の人たちはこの地元の企業を大いに誇りにしていい。
今回載せる動画は、マツダのスピリットを短くまとめた優れた作品だ。これも是非ご覧いただきたい。