みゆき野球教室

ダメ人間の由佳さんが毎日0時に更新しています

秋刀魚の味

小津安二郎といえば、北鎌倉を連想する。彼の作品の中でも、北鎌倉から横須賀線に乗って通勤する場面が何度か描かれている。

私もいつか、この古都に住みたいと思っていたが、大船のアパートに住めなくなる事情があり、19歳の時に実現した。
 
駅前の小さな不動産屋で契約をして、僅かばかりの荷物を運び込んで、いよいよ北鎌倉での生活が始まった。
8畳の和室にキッチン、共同トイレ、風呂無しの物件だったが、小津安二郎の終の住処にも、松竹大船撮影所にも近く、環境は良かった。
私はこの部屋でシナリオの修行をしたが、完結した作品は少ない。
 
北鎌倉に住んでいた頃は、まだ小津安二郎の作品は何ひとつ観ていなかった。いつかは観ようと思っていたが、当時はまだビデオが普及していなくて、レンタルビデオも高かった。
ようやく彼の作品を観たのは、20歳の時に映画を撮るため滞在していた広島での「東京物語」が最初だった。あまり面白いとは思わなかったが、映画を志す者の必修の一般教養科目としての鑑賞だった。
 
二番目に観たのは「彼岸花」だった。TBSで深夜に放映していた映画番組でのこと。さわりだけを観ようと思ったが、引き込まれて最後まで観てしまった。これで一気に小津ファンになった。
その時は北鎌倉を離れ、日活撮影所の近くに住んでいた。市の図書館で小津関連の書籍を片っ端から借りて読み耽った。その結果、小津はその作品も素晴らしいが、彼の人間そのものはもっと魅力的だということがわかった。それまでは、日本映画では黒澤明を目標にしていたが、宗旨替えをして小津を目指すようになった。
 
小津は生涯独身を貫いた。彼は原節子を愛した。原も小津のことが好きだった。しかし、二人は結ばれることはなかった。原は小津が亡くなると、表舞台には一切出ることがなかった。
小津は粋を愛し、野暮を嫌った。彼の作品によく見られる田舎者を否定するような場面はその反映だろう。でも、それは潔いと思う。山田洋次のように、いかにも庶民の味方ですといった感じで映画を撮るものの、彼自身はインテリの上流階級だ。その点、小津は上から目線で野暮ったいものを嫌う。嘘がなくていい。
小津の生活信条は次の言葉に集約されている。
 
どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う
 
小津が生きた時代は戦争が暗い影を落としていた。彼自身、何度も召集され、軍広報部映画班に徴収されたシンガポールで終戦を迎えている。戦後、復員する際には妻子のある者などに順番を譲り最後の最後までシンガポールに留まった。「俺は後でいいよ」と言って。またこの戦争では盟友 山中貞雄を戦病死で亡くしている。これらの経験は戦後の作品に影響しているように思う。しかし、彼は正面から戦争反対というメッセージは映画に込めなかった。そのため若手監督たちからは腰抜けと言われる原因となった。
 
私が小津安二郎の作品で一番好きなのは遺作となった「秋刀魚の味」だ。
小津の映画は小難しいと食わず嫌いな人が多いが、娯楽作品としても十分に面白いものを撮っている。その中で最も娯楽と芸術性を両立させ、小津芸術の完成形となったのが、この作品だ。
主演は、笠智衆。彼が海軍時代の部下に偶然再会する場面は私が大好きなところだ。部下は加東大介。加東の孫を乗馬クラブでお世話した関係で、私は彼を贔屓にしている。
 
笠智衆加東大介が場末のバーで酒を飲む場面。マダムは岸田今日子。このバーは、加東の行きつけの店で、どうやら行くといつも「軍艦マーチ」をかけてもらうようだ。その日も、マダムが気を利かせて「かけましょうか」と言ってくる。加東は、「おお、かけろかけろ」と促す。そして店内に軍艦マーチが鳴り響くと、加東は立ち上がり海軍式の敬礼をしながら行進する。これだけ見れば、戦争を懐かしみ賛美しているようだが、それが違うとわかるのは、こんな台詞から。笠が「戦争に負けてよかった」と言い、加東が「そうかもしれねぇなぁ。少なくともバカな野郎が威張らなくなっただけでもね」と言う。
 
戦後70年間、日本は平和を享受してきた。それは、先人たちの努力の結果だと思う。しかし、世の中には一定数頭の悪い人がいる。そんな人が権力を手にしたら手に負えない。そして今がそうだと思う。日本は近いうちに前途ある若者を戦場に送り、多くの命が奪われるだろう。バカな野郎が再び威張る世の中がとうとう到来してしまった。