みゆき野球教室

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新幹線大爆破

私が生まれた1964年(昭和39年)は、多くの出来事があった。

カルビーかっぱえびせんは私が生まれる3日前に発売され、現在も多くの人に愛されている。
4月には海外観光渡航が自由化された。7月にはTBSラジオで「全国こども電話相談室」が始まり、形を変えながら今年の3月まで放送された。
スポーツの世界では、シンザンが史上二頭目三冠馬になり、大相撲では6場所中4場所で大鵬が優勝している。
 
しかし、何よりも大きな出来事は、東京オリンピックの開催だろう。これは、戦後日本の復活を全世界にアピールするにふさわしいものだった。これに合わせて、東海道新幹線東京モノレールの開業して全国から、全世界から人々を東京に集めるインフラが整備された。
東京オリンピックでは、たくさんの人の料理を提供するため、食品の冷凍技術が発達したと言われている。また、戦後何度もやってきた英会話ブームが一番盛り上がった年でもある。
 
東海道新幹線は当初、東京ー新大阪間を4時間で結んでいた。今思えば、随分時間がかかる印象だが、当時は在来線の電車特急こだまが約6時間半だったので大幅なスピードアップと言える。
のちに、所要時間を3時間10分に縮め、今では2時間22分という航空機と大差ないまでになった。
さらに、新大阪から西へ延伸し、今では全国に新幹線ネットワークを持つまでになった。
 
さて、ここまで書いてどの映画を取り上げるか、まだ決まっていない。順当な線は、市川崑監督の「東京オリンピック」だろうし、アルフレッド・ヒッチコックの「バルカン超特急」という線もある。アーサー・ヒラーの「大陸横断超特急」もあるが、これは機会を見て取り上げるので、今回は「新幹線大爆破」でご機嫌を伺おうと思う。
 
1975年というから新幹線が開業して11年後。当時、東映のドンと呼ばれた岡田茂アメリカで流行った作品が時間遅れで日本でも流行るという法則を見つけ出した。当時のハリウッド映画は、「ポセイドン・アドベンチャー」や「大地震」、「エアポート'75」といったパニック映画全盛期だった。
パニック映画で日本独特のもので映画を作れと厳命した岡田は、新幹線に爆弾が仕掛けられ、スピードが上がると起動し、再び80km以下のスピードになると爆発するという企画を承認した。これは大ヒットする予感があり、巨額な製作費が投入された。
しかし、題材が題材だけあって国鉄(当時)の協力が得られず、結局ゲリラ撮影とミニチュア撮影で映画を完成させた。だが、製作の遅れにより十分な宣伝ができないこともあり、興行的には失敗してしまう。
評論家の評価はそこそこ良かったが、いつしかこの映画は忘れられた存在となる。しかし、フランスで公開した際に高評価を得て、大ヒットし、日本で凱旋公開され、ようやく日本でもこの作品の価値が高まった。
 
止まることができない新幹線という密室の中で繰り広げられる人間ドラマ、犯人と新幹線司令室との頭脳戦、犯人を追い詰める警察という糸が縦横無尽に張り巡らせれ、見るものに緊張を与える。
何よりこの映画に厚みを与えているのは、主犯の高倉健の存在そのものだろう。今でもそうだが、社会は弱者に厳しい。弱いが故に虐げられた人間の悲しみと怒りを台詞ではなく、存在として表現している。
犯人は、身代金として米ドルで5,000万ドルを要求した。これと引き換えに、爆弾を外す方法が知らされる。我らが健さんは、この大金を手に入れて逃亡に成功するのだろうか? それとも新幹線は爆破されて多くの命は失われることになるのか? この先は、皆さんの目でお確かめいただきたい。
 
新幹線大爆破」のストーリーは、のちにハリウッドで「スピード」という映画で使われ、これも大ヒットした。
 
高倉健は、稀有な俳優だ。昨年惜しくもこの世を去ったが、日本映画界にたくさんいる「けんさん」の中で最も背中で演技ができる人だった。
 
世田谷区の上野毛健さんの邸宅があったが、私はそこで何度か健さんに会っている。見かけたという方が正しいかもしれない。
私は彼の作品をあまり観ていない。機会を見つけて、鑑賞しようと思っている。