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みゆき野球教室

ダメ人間の由佳さんが毎日0時に更新しています

港区のある街にその人の家はあった。私は、21歳から22歳にかけて1年間、その人の家に毎日通った。
ハイカラなおじいさんだった。コーヒーや洋食、そして都会を愛した人だった。
 
生まれたのは広島の片田舎だった。若い頃に観た映画の影響で映画監督を志す。伝を頼って京都の撮影所に仕事を得る。しかし、与えられた仕事は助監督でもキャメラマン助手でもなく、現像所のフィルムの乾燥係だった。ここで厳しい水仕事に耐えた。京都の冬は寒い。その中の水仕事はさぞ辛かっただろう。
 
まだ体の小さい青年は、ちり紙として使われていたシナリオを通して映画を知る。シナリオで書かれていた場面と現像が上がったフィルムを見てますます映画に魅せられていく。シナリオなら体が小さくても書ける。そして監督にもなれるかもしれない。
 
シナリオを書いてはコンクールに応募し、たまに受賞するが映画化はされなかった。
そんなある時、生涯の師となる監督と出会う。彼にシナリオを見せるが、酷評される。「これはシナリオではありません。ストーリーです」。そう言われて自殺も考えるが、1年間は修行と決めて古本屋で文学全集をなけなしのカネで買い込み、ひたすら読んでは書き、書いては破り、そしてまた書いた。
 
しかし、戦争が暗い影を落とし、彼も海軍に召集された。年下の上官にいじめられ、辛い海軍生活だった。100人いた仲間たちは次第に戦地に送られ、ほとんどが再び生きて日本に戻ることはできなかった。
 
戦争が終わり、再び映画に携われるという熱い気持ちで撮影所に復帰した。
いよいよ自身のシナリオが映画になる。だが、彼の書くシナリオは暗いものが多く、興行収入の最大化を狙う経営陣にはよく思われなかった。
彼は撮影所を飛び出し、自身の制作プロダクションを立ち上げ、念願の監督デビューを果たすが、プロダクションの経営は火の車。
最後に本当に作りたい映画を撮ってプロダクションを解散しようと考えた。
セリフが一つもないその映画は、海外の映画賞をとり、多くの国で上映されることになった。その売り上げでプロダクションの借金をすべて返済し、また自分たちの映画を作ることができる環境が残った。
 
以後、彼は精力的に映画を撮った。また、外部から注文があったシナリオも一切断ることなく受けた。
彼は100歳で亡くなるまで、故郷の広島、とりわけ原爆に、そして人間の生と性にこだわって映画を撮り続けた。
 
私が生涯で初めて読んだシナリオは、この人のものだった。そのシナリオは、彼の修行時代のことを書いていた。
同じ年、この人にシナリオが掲載された本にサインをもらった。高校生の時だ。
のちに、私も映画の道を志し、このほとの自宅に行くようになったことは書いた通りだ。
自宅のチャイムを押して、監督が出た時はホッとしたが、彼の妻が出てきた時は怖かった。
 
私がこのブログを書き始めてそろそろ100回となる。やりたかったこと、書きたかったことはほぼ達成した。しかし、どうしても書きたかったことが一つだけ残っている。原爆のことだ。
私の母は原爆投下後の広島市に入っている。そのせいか、身体が弱くいつも病気だった。私は彼女を労わることができなかった。それどころか、激しく憎んだ。そして恨んだ。
私も広義では被爆二世と言っていいかもしれない。よく病気になった。この憎き原爆についていつかは書かなければならないと思っていた。しかし、まだそれを書く力量が私にはない。これは次のステージで必ず実現させたい。
 
さて、この監督は1963年に「母」という作品を撮っている。この作品の主演は殿山泰司乙羽信子。殿山はこの監督と一緒にプロダクションを立ち上げた。宝塚出身の乙羽信子は、監督の3人目の妻で、私が怖かった人だ。
 
劇中、夫婦の営みの場面がある。真っ昼間、窓を閉め、鍵をかけて、短い時間の夫婦の時間。こんなことを通して、真の夫婦になるんだろう。私は数多くのラブシーン、ベッドシーンを見てきたが、この作品ほど夫婦の業を感じるセックスは見たことがない。
 
私はこの作品を観て、母の存在について深く考えた。前述した通り、私は彼女を憎み恨んでいた。だが、もっと優しくしてあげればよかったとも思っている。結局、和解することはなかった。今頃になって後悔しているが、時は戻らない。
 
 

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