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ストロベリー・ロード

1984年11月、場所は府中の東京競馬場。今まさに、競馬のオリンピック 国際招待競走のジャパンカップG1が行われようとしていた。

鎖国競馬を貫いてきた日本中央競馬会(今のJRA)が世界に通用する馬作りを目的に創設されたレース。しかし、海外からは一線級の馬の参加はないものの、日本馬との差は大きく、全く手が出なかった。
この年のジャパンカップは、三冠馬になったばかりのシンボリルドルフ、前年の三冠馬ミスターシービーが外国馬を迎え撃つ立場で参加した。シンボリルドルフは4番人気、ミスターシービーは堂々の1番人気に支持され、いよいよ日本馬の優勝が見られると関係者や競馬ファンは夢見た。
 
ゲートが開き、スタート。秋枯れの芝コースに14頭の優駿が飛び出した。
シンボリルドルフは中団から、そしてミスターシービーはいつものように離れた後方からレースを進めた。逃げたのは人気薄の日本馬、カツラギエース。おそらくは4コーナーまでは持たないだろう。スタンドやテレビで観戦する関係者やファン、そして同じレースに騎乗していた13人の騎手もそう思っただろう。ただ一人、カツラギエースの騎手 西浦勝一だけはひょっとして勝てるのではないかという予感があった。
 
4コーナーを回り、先頭はカツラギエース。まだ後方への差を保ったまま。シンボリルドルフが外目4番手に接近していた。1番人気のミスターシービーは絶望的な位置にいる。でも、いつもそんな位置から奇跡の追い込みで勝っていた。多くのファンは日本馬のワンツーがあるのではと期待した。ルドルフとシービー、どちらが勝つのか? しかし、先頭のカツラギエースの脚色は衰えず1着でゴール。シンボリルドルフは3着を死守するのがやっとだった。大外を追い込んだミスターシービーは10着に敗れた。
 
あれから30年以上の月日が流れた。今ではジャパンカップの勝ち馬は日本馬が占めるようになった。また、海外のG1レースでも日本馬の活躍は著しい。
私はナショナリストではないので、一貫して海外の馬を応援してきたが、その分馬券では勝てなくなってきた。
 
カツラギエースが勝ったジャパンカップに、ストロベリーロードという馬が参戦していた。オーストラリアで生まれ世界中で戦ってきた。ジャパンカップではイギリスの至宝とも言われたレスター・ピゴットを鞍上に迎え7着という成績だった。
この馬に、というかこの馬名にインスピレーションを受けた作家がいた。石川好だ。競馬ファンでもあることで知られるこの作家は、自らのカリフォルニアでのイチゴ農場での青春の日々を綴った「ストロベリー・ロード」というノンフィクション小説で第20回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。この小説は映画化され、私も観に行った。
 
「ストロベリー・ロード」を観たのは1991年のことだ。この年はいろいろなことがあり、今思えばとても重要な年だったと思う。サンフランシスコで暮らしたり、失恋したり、他にも今の人格を形成する出来事が多かった。
当時から海外、とりわけアメリカを目指していた私は、日本人による海外移住体験記などを好んで読んだ。映画やテレビも同様だ。
 
主演は松平健。現代劇に出る彼はとても新鮮だった。まだ若い松平健の魅力にファンになってしまった。松平の役どころは作者の兄だったと思う。
劇中、東海岸にいる恋人に電話で気持ちを伝えるのだが時差の関係で早朝か真夜中にかけてしまう失敗をする場面をよく覚えている。
この映画には、ロッキー青木も出演している。レスリングの選手としてアメリカに渡り、そのまま帰国せずにアメリカでレストラン経営学の学位を取り、露天のアイスクリーム売りから起業してレストランビジネスで大成功した彼は、私のヒーローだった。
 
そういえば、作者の石川好が海外の競馬関係者と話しているとき、「ストロベリー・ロード」の話が出て、相手が「どこかで聞いた名前だな」と言ったそうだ。
 
アメリカについて考えていたら、そんな古いレースと映画を思い出して記してみた。