みゆき野球教室

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蒲田行進曲

高校を卒業した後、私は進学が許されずに、一旦就職した。しかし、学歴がないと社会の中ではゴミ以下の扱いを受けることに嫌気がさして退職し、シナリオの修行を始めた。

私が当時住んでいたのは、北鎌倉。松竹大船撮影所と小津安二郎監督が晩年を母と過ごした家の中間地点にあった。
アルバイトをしながらの生活だった。仕事が遅くなり、早朝に帰宅することもあった。朝の澄んだ空気のなか、自宅へ向かって歩いて帰った。そんな時は、ちょっと寄り道をして、大船撮影所の周りを歩くことがあった。まだ早いのに、撮影所からはセットを建てる槌音が聞こえてきた。撮影所の背後には小高い山があり、そこへ登れば撮影所が見えるのではないかと思って実行したこともある。残念ながら鉄条網で行き止まり、撮影所は見えなかった。
いつかはこの中に入って映画を作りたいと思った。
 
時は流れ、映画の夢破れて堅気の生活をするようになったある日、松竹大船撮影所が閉鎖されることになった。すでにその時は「鎌倉シネマワールド」というテーマパークになっていたが、ようやく撮影所の敷地内に入ることができた。模擬撮影を見学して、なんだかとても寂しい気持ちになったのを覚えている。
当時の私は遠距離恋愛が成就して二人暮らしだったが、撮影所に行った時、二人で行ったのか、それとも一人だったのかが思い出せない。その人のことを忘れてしまいたかったので、記憶が消去されたんだと思う。
 
遠距離恋愛は、東京と京都が舞台だった。
私は、その人の記憶の多くを消し去ったが、このことだけはなぜかよく覚えている。
その人は、西院という京福電車の駅の近くで働いていた。電話をした時、ちょうど踏切の警報機の音が鳴っていた。その音を聞いてある映画を思い出していた。
 
蒲田行進曲」は東映京都撮影所を舞台とした松竹映画だ。
大スター銀ちゃんと彼を慕う大部屋俳優ヤス、そして銀ちゃんの恋人で彼の子供を宿しているかつてのスター女優小夏の三人を核とした人情コメディだ。
撮影所が舞台ということもあり、映画の舞台裏をたっぷりと見ることができる。
映画のクライマックスは、東映京都撮影所が社運を賭けて製作した「新撰組」の階段落ち。セットに組まれた巨大な階段から銀ちゃん演じる土方歳三が大部屋俳優を次から次へと斬り落としていく。そして、ヤスが派手に階段を落ちるというシーン。東京から来たスタントマンもセットを見て逃げ帰ったという大階段。ここから落ちれば、良くて半身不随。下手をすれば命がない。そんな危険なスタントシーンを愛する銀ちゃんのためならと引き受けたヤス。
いよいよ撮影の夜。すでに小夏はヤスに押し付けられていた。そして臨月。小夏は心配になり、雪の降る道を撮影所を目指して歩いていた。そこへ京福電車のあの踏切の音。ヤスは派手に階段を落ちて映画バカここにありということを示した。
 
その人と別れて何年になるんだろう。ある冬の日、静かに出て行った。それ以来、私は一人で生きている。夏が終わり、秋になろうとしている。この季節は、人肌が恋しくなる。