みゆき野球教室

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ライトスタッフ The Right Stuff

初めてヒコーキに乗ったのは21歳の時だった。

 
その前年、私は生きることに疑問を感じ、なんとかしようともがいていた。
ある朝、由比ヶ浜から太平洋を見ていて閃いた。旅に出よう。
北鎌倉にある私の部屋に戻り、荷造りをして最初に向かったのは青山だった。まずは、髪を切ろうと思った。それから都内で用事を済ませ、東京駅から大垣夜行で西へ向かった。
目的地に着いたのは、夕方だった。友達の家に泊めてもらった。その夜、熱が出た。長旅の疲れが出たんだろう。
 
私の父と母は広島で生まれた。親戚もいる。友達もいる。そこで旅の目的地は広島にした。少し滞在して、すぐに鎌倉に戻ろうと思った。しかし、広島滞在は9ヶ月に及んだ。
 
北鎌倉の我が家は、松竹大船撮影所と小津安二郎監督の終の住処の中間地点にあった。シナリオの修行をしながら、アルバイトで生計を立てた。しかし、いつの間にかシナリオを書くこともなくなり、無為な毎日を送っていた。そんな時だ。旅に出ようと思ったのは。
 
広島に着くと、当座の生活費を稼ぐためにアルバイトを始めた。やがて友達もでき、滞在が長くなった。そんな時、友達と映画を撮ろうということになった。
私は高校1年の時に8mmフィルムで「殺意」という映画を撮り監督デビューした。その後何本か撮ったが、高校を卒業してシナリオ修行に入ってからは1本も撮っていなかった。それどころか、映画への情熱を失いかけていた。
 
優秀なプロデューサーを得て、プロジェクトは動き始めた。私はシナリオを書き、監督した。
その映画は「ダ・ビンチの子供たち」というタイトルで300人の観客に向けて上映された。
ストーリーはこうだ。ミュージシャンを目指す若者が恋人との別れをきっかけにプロになるため上京する、という今思えば恥ずかしくなるようなものだ。もちろん、映画を志しながら情熱を失いかけた自分自身を描いた。
映画は、みんなに見送られて広島空港から旅立つシーンで終わる。まだ山の中ではなく、市内の便利なところに空港があった時代。
 
映画を撮ることにより、私はもう一度情熱を取り戻した。そして翌年の3月、映画の主人公と同じように広島空港から旅立った。その時、「日本一の助監督になる」という言葉を残して。
しかし、この時に自分には才能がないことに気づいていれば不幸な人生を送らずに済んだが、それは言わないことにしよう。
北鎌倉の部屋を引き払い、六本木にアパートを借りてついに映画界に入った。
 
ヒコーキが好きなので、航空映画はよく観る。
ライトスタッフ」は、アメリカ最初の宇宙飛行士を選ぶ映画だ。
劇中、腕は確かだが大学を出ていないために候補から外されるテストパイロットが出てくる。彼は人類で初めて音速を超え、後に空軍の准将になったチャック・イエーガーだ。
よく、「学歴なんて関係ない」と言われる。私もそう言われて大学進学を断念した。しかし、その言葉が嘘であることは社会に出た1日目でわかった。チャック・イエーガーのように優秀なパイロットであっても、学歴がないために宇宙に行くことはできなかった。
学歴があって、その上で能力が問われるという真実を隠して若者を騙さないでほしい。
 
ライトスタッフ」の音楽は、私が大好きなビル・コンティーだ。彼は「ロッキー」で注目され、その後も美しいメロディを生み出し続けている。