みゆき野球教室

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地上より永遠に From Here to Eternity

大好きな歌手のひとりに、フランク・シナトラがいる。
フランキーは、本名をフランシス・アルバート・シナトラといい、フランシスは私の洗礼名と同じだ。
 
イタリア系のフランキーは、第二次世界大戦以前から歌手として、そして映画の主演として活躍した。
彼は、戦争が始まると自ら兵役に志願したが、身体検査で不合格となり、歌で兵士たちを慰問して回った。
戦争が終わり、彼の全盛期がやってくるはずだったが、大きなスランプになり、映画会社からもレコード会社からも見放される悲運を味わう。
そんな時に彼を救ったのが、今回取り上げる「地上より永遠に」という映画だ。「ここより とわに」と読む。
 
彼はそれまで演技は下手で大根と言われ続けてきたが、全精力を傾けて挑んだこの作品でオスカーを受賞している。歌ではなく、純粋に演技だけでの受賞だ。フランク・シナトラの俳優としての才能は、この作品で見事に開花した。そして、フランキーはスランプから脱出することが出来た。
 
彼の歌では「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン(Fly Me to the Moon)」、「カム・フライ・ウィズ・ミー(Come Fly with Me)」、ニューヨーク・ニューヨーク(New York New York)」が好きだ。
 
20世紀を代表する歌手で俳優のフランク・シナトラ。私は自分の名前を忘れても、彼のことは決して忘れない。
 

遠すぎた橋 A Bridge Too Far

映画ファンになった中学2年の頃。映画も好きだが、映画音楽も大好きだったことは以前書いたとおり。「ロッキー」のLPレコードが欲しかった。その後、お金を工面してレコードは買ったが、たまにしか帰ってこない父親が、どこで聞いたのかは知らないが、「ロッキー」のレコードを買って帰宅した。しかし、残念なことにそれはオリジナルサウンドトラック盤ではなく、編曲したものだった。
そこで父と二人でレコード屋へ行き、そのレコードを返品して新しいレコードを買ってもらった。それが、「遠すぎた橋」のオリジナルサウンドトラック盤だ。
 
遠すぎた橋」は、1977年に公開された戦争映画で、当時のオールスターが総出演していた。また、製作費も当時のレートで90億円の巨費が投じられた。
この作品は、史実に基づく。マーケット・ガーデン作戦という戦闘を描いた。当時のことだから、CGはなく、すべて実写で撮影された。空挺団がパラシュートで降下するシーンは、圧巻だった。また、爆破シーンも大量の火薬を使い、迫力があった。
 
すでにどんなストーリーかは忘れた。というより、公開された時も背景を予習していなかったので、ストーリーが頭に入って来なかった。それでも、私はこの映画を観て良かったと思っている。
まず、音楽がいい。サントラ盤を買ってもらったことにより、繰り返して聴いた。
そしてもうひとつ、これはロバート・レッドフォードのセリフだったと思うが、こんなセリフが心に刺さった。
「上の者が戦争ゴッコをしたいという。そうすると、下にいる兵士たちが死ぬ」といったものだ。
 
戦争を起こそうとする者や命令する者は安全な所にいて、最前線で戦う兵士たちは常に死と隣り合わせだ。自称先進国の某国も、三代目のおぼっちゃま総理が戦争をやりたがっている。彼は決して戦場には行かない。そして、死ぬのは、あるいは殺すのは私たちの息子や若者たちだ。
もし、どうしても戦争がしたければ、自ら最前線で指揮をとって欲しい。おぼっちゃま総理は、何かと言えば「私が最高責任者だ」と言っているのだから。
 

フライング・コップ POLICE SQUAD!

子供の頃、「あやまって海に落ちて死亡しました」というニュースを聞いて、なんで海に落ちる前に「ごめんなさい」って言うんだろうと思った。バカな子供だった。
大人になってもバカは治らず、まともな人間になれなかった。ごめんなさい。
 
「フライング・コップ」は、アメリカの刑事モノのテレビ映画だ。全編、おバカなギャグで満載の本当にバカな作品。登場人物は、みんな大真面目な表情でギャグを連発。かつてのバスター・キートンの手法だ。
 
主演は、レスリー・ニールセン。もともとは「ポセイドン・アドベンチャー」では船長役を演じるなど、シリアスで渋い俳優だったが、コメディに転じて一気に才能が開花した。
 
この作品は、たったの6話で打ち切りになってしまう。あまりに面白さがかえってお茶の間の笑いには受け入れられなかった。そこで、劇場用に「裸の銃を持つ男」として作られ、大ヒットした。シリーズ二作目の「裸の銃を持つ男 2 1/2」は私がアメリカで初めて観た映画で思い出がある。
 
大好きなギャグはたくさんあるが、中でもラストシーンでストップモーションになり、クレジットが流れる場面。フィルムを止めるのではなく、俳優が動くのをやめるだけなので、犯人が逃げたり、そそぎがけのコーヒーが溢れたりするあたりは大好きだ。
 
フジテレビは「33分探偵」でこの作品を全面的にパクった。恥ずかしい。
 

 

マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 The Iron Lady

もうすぐ選挙だ。
参議院議員選挙に東京では都知事選挙も行われる。
選挙にはたくさんの金がかかるが、これは民主主義の手続きのため必要なコスト。これを否定したら、国民は大きな権利を失う。
 
今回の参議院議員選挙の争点はアベソーリはまた経済と言うが、実は憲法改悪。だが、多くの国民は騙されて、自公を勝たせて、アベは憲法を変えようとするだろう。
都知事選挙もあれだけ知名度だけで選んで痛い目にあったのに、同じように知名度で選び、またまた痛い目にあうことだろう。
イギリスでは、EU離脱残留かを決める国民投票が行われる。これも結果次第では日本の経済に大きな影響を与えるので、注目したい。
 
高校生の時、友達が生徒会長に立候補するというので、ゴーストライターを買って出たことがある。その友達は、圧勝で生徒会長の座についた。私も入閣するように要請があったが、断った。権力側にいたくないという気持ちが強かったからだ。
 
生徒会長選挙の投票率はほぼ100%だが、国政選挙などの投票率は極めて悪い。「あなたの一票が政治を変える」と言われるが、実際にはあなたが一票を投じたことでは何も変わらない。しかし、一票を投じなかったことで、大きく変わることはたくさんある。私達は血を流しながら選挙権を獲得した。次の選挙では、その権利を有効に使いたい。
ちなみに、棄権は権利であると言う人がいる。これは間違っている。権利を棄てるから棄権という。
 
マーガレット・サッチャーの伝記映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」を何年か前に品川区の目黒シネマで観た。
サッチャーは、新自由主義を唱え、富裕層を富ませ、失業者を増やし、イギリスを疲弊させた。そんな彼女の生涯をメリル・ストリープが演じた。
賛否が大きく分かれる彼女の政治家としての実績だが、私は彼女を否定する。
 

奇跡の人 The Miracle Worker

「奇跡の人」は、三重苦を背負いながら、不屈の努力でそれを克服したヘレン・ケラーと彼女を教え導いたサリヴァン女史の伝記映画である。この奇跡の人とは、ヘレン・ケラーのことではなく、サリヴァン女史のことをいう。
 
五体満足な身体で生まれながら、人生に苦戦している私としては、彼女の生き様を学び、まだまだ努力しないといけない。
 
ヘレン・ケラーに関しては、皆さんも学校で習ったことと思うので、多くを語らなくてもいいだろう。
今回は、違った視点から彼女とサリヴァン女史のことを考えてみようと思う。
 
もし、ヘレンが貧しい家に生まれていたら、どうなっただろう?
おそらくは、サリヴァン女史との出会いはなかっただろう。家庭教師を雇うには、十分な経済力がないと出来ない。家庭教師も雇わない上に、家族のお荷物になっていたかもしれない。日本でも昔は、障害を持って生まれてきたら、生まれて来なかったことにすることはよくあったと聞く。アメリカにおいては、そこまでは酷くないにしても、疎んじられて失意のうちに人生を終えた可能性は十分にある。
 
このように、人は運に左右される。もし、運が悪いとどんなに能力があっても、どんなに努力をしても報われない。というよりも、運が悪い人には努力ができる環境は与えられない。
 
インターネットの相談掲示板を見ていると、こんな書き込みをよく目にする。
「高卒だけど、アナウンサーに(あるいは新聞記者や上場会社の社員など)なる方法を教えてください」と。
その人は、おそらく進学ができる経済力が家庭になく、諦めさせるために親や大人たちから「学歴なんて関係ない。学歴がなくても立派な人や成功した人はたくさんいる」と教えられてきたのだろう。それを信じて高校を出て社会に出て、理不尽な社会の仕組みを知ることになる。その人は、運がなかった人だ。もし、この人に教育の機会が与えられていたら、夢をかなえていたかもしれない。
 
努力できる環境にないと、努力したくても努力できない。
ヘレン・ケラーの陰に、多くの障害を持って生まれた人が、努力する環境を与えられぬまま世を去った。今でもそうだろう。
私は神を信じる人間だが、なぜ神はこのような酷い現実を人に与えるのだろうと強く思う。
神は乗り越えられない試練は与えないとよく言われるが、これは誤りだ。専門用語で生存者バイアスという。
 
このような過酷な人生でも生きていかないといけない。人生は無情だ。